#45 Đường Trần Quốc Toản
チャンクオックトアン通り
カテゴリ:ベトナム歴史ストリート
更新:2017/08/19 – 10:00
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ベトナム全国の通りには、歴史上の出来事や重要人物の名前などがつけられている。よく耳にする通り名の意味や由来について紹介
モンゴル軍撃退で自国のために
命を犠牲にした若き英雄
チャン・クオック・トアン(Tran Quoc Toan/陳國瓚、1267~1285年)は、大越チャン(Tran/陳)朝(1225~1400年)時代の王族。陳朝第3代皇帝チャン・ニャン・トン(Tran Nhan Tong/陳仁宗、在位1278~1293年)の治世に生きた。若くして優れた才能を有し、モンゴル軍(元朝)がベトナムを2度目に侵攻した際に大きな功績を残したことで知られる。
1282年10月、陳朝朝廷は王族や朝廷の役人らを集めてモンゴル軍の撃退に向けた会議を開いたが、陳國瓚は当時16歳と若かったため、王族の一員にもかかわらず会議に招かれなかった。この屈辱を機に、モンゴル軍と戦うべく自ら家臣や親族を集めて軍を編成。最終的に1000人を超える兵士を擁することとなり、実力が認められた。
1285年、モンゴル軍が大越を侵攻(第2次)し、陳朝の首都タンロン(Thang Long/昇龍)を占拠。しかし、大越軍の総司令官に命じられたチャン・フン・ダオ(Tran Hung Dao/陳興道)の指揮とチャン・クアン・カーイ(Tran Quang Khai/陳光啓)の尽力のもと、大越軍はゲリラ戦や食料調達の妨害などによりモンゴル軍を撤退に追い込んで首都を奪還し勝利した。陳國瓚の死に関する歴史的記録は残っていないが、18歳だった1285年にモンゴル軍との戦いの中で戦死したとされている。
陳國瓚は、若くして自国のために命を犠牲にした勇敢さと愛国心が称えられ、ベトナムの歴史にその名を残している。現在、ベトナム各地に彼の名を冠した学校や通りが存在している。また、ベトナム共和国(1955~1975年)海軍の軍艦「HQ-06」にも「チャンクオックトアン」の名が付いていた。
石井 彩子
元ベトナム考古学徒。考古学はライフワーク。日々、どローカルなベトナムライフを満喫中。
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